ナンシー・スパンゲン



ナンシー・ローラ・スパンゲン(Nancy Laura Spungen 1958年2月27日生)
 [シド・ヴィシャスの恋人]


 フィラデルフィアで父フランク、母デボラの間に生まれる。出産の際へその緒が首に絡まり、危うく命を落とすところであった。スパンゲンの家族はユダヤ系の中流家庭で父はセールスマン、母は後にオーガニック・ショップを経営するようになる。スパンゲンは夜泣きと癇癪持ちの厄介な赤ん坊であった。生後3か月の頃、小児科医に精神安定剤を投与されたが彼女の乱暴な振る舞いは収まらなかった。母デボラは後にインタビューに答え「赤ん坊が金切り声を出すは当たり前だが、ナンシーは金切り声を上げてばかりいた」と述べた。

 5歳時の知能指数テストでは優秀な結果を出し、小学校の間は成績も優秀であったが友人はわずかだった。

 彼女は、妹弟に対しても乱暴な振舞いをする怒りっぽい子供であった。ハサミでベビーシッターを殺すと脅し、精神科医の診断を受けたこともある。11歳で放校処分となる。15歳の時、彼女の主治医は彼女を統合失調症と診断した。

 彼女の一貫性のない行動に疲れた両親は、彼女を特殊児童が集まる学校に入学させた。1972年1月、スパンゲンは学校から逃げ出し、ハサミで手首を切って自殺を図った。

 1974年にハイスクールを卒業、コロラド大学ボルダー校に願書を出し受理される。16歳で大学に通い始めたが、5カ月後、警察のおとり捜査でマリファナを購入して逮捕され、コロラド州から永久追放された。最初の仕事を初日にクビになって以降、彼女は両親からの盗みと麻薬の密売で生活した。

 17歳で家を出てニューヨークに移り住む。タイムズスクエアの近くでストリッパー、さらに売春宿で働く。当時はエアロスミス、ニューヨーク・ドールズ、ラモーンズなどのファンであった。1977年にロンドンに移住し、セックス・ピストルズに出会う。リードシンガーのジョニー・ロットンは彼女を嫌い、遠ざけようとしたが、彼女はシド・ヴィシャスについて回り、やがて一緒に生活するようになった。

 関係があった約2年間にスパンゲンとヴィシャスはヘロインをはじめ、多くのドラッグを使用して依存症になった。ヴィシャスはスパンゲンに出会う前からドラッグについては極めて悪質で、ある情報筋によれば、彼は幼少時から彼の母親と一緒にスピードを使用していたという。

 タブロイド紙は、スパンゲンのたび重なる暴言と暴力に辟易し「吐き気を催す」と評した。

 1978年にピストルズが解散したのち、スパンゲンとヴィシャスはニューヨークのチェルシーホテルに引っ越した。その後数ヶ月にわたり、ヴィシャスとスパンゲンの薬物依存はますます酷くなり、ヴィシャスはスパンゲンに壮絶な暴力を振るった。

 1978年10月12日、スパンゲンはバスルームの床で遺体となって発見された。ナイフで腹部をひと刺しされており、ナイフはヴィシャスが所有するものとわかった。ヴィシャスはまもなく逮捕され第2級殺人で起訴されたが、ヴィシャスは無罪を主張し、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。ナンシーの死の4カ月後、ヴィシャスはヘロインのオーバードースで結審前に死亡した。被疑者死亡により捜査は終了、ナンシーは故郷フィラデルフィアに埋葬された。

 前述のとおり、この殺害事件はヴィシャスの死によって捜査が終了しており、犯人について法律的には結論が出ていない。最終的にスパンゲンを殺害したのはヴィシャスではないとする説がいくつかある。

 ヴィシャスとスパンゲンの人生については、後に数多くの文献で取り上げられたほか、1986年には2人を題材にした伝記映画「シド・アンド・ナンシー」が公開された。

 1978年10月12日死去(享年20)


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