ウサーマ・ビン・ラーディン



ウサーマ・ビン・ラーディン(Usama bin Laden 1957年3月10日生)
 [サウジアラビア・イスラム過激派テロリスト]


 サウジアラビアの建築関係の財閥「サウジ・ビン・ラーディン・グループ」を柱としたラーディン一族に生まれる。1979〜1989年のソ連のアフガニスタン侵攻のさい、身と資財を擲ってソ連と戦った。この時にアルカーイダの原型となった軍事的ネットワークを作ったとされる。

 戦争後には過激な反米活動を展開したため、国を追われてアフガニスタンのターリバーン政権に身を寄せた。ここを拠点に様々なテロ活動を指示し、その極めつけが2001年9月11日のアメリカ同時多発テロであった。

 アメリカ政府はアフガニスタンのターリバーン政権に対して首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの身柄引き渡しを要求。しかしターリバーン政権は要求を拒否し、同年10月7日にアフガン戦争が開始された。ターリバーン政権は打倒されたが、ビン・ラーディンの行方は戦争開始以降わからなくなり、このためアメリカ軍はアフガニスタンと隣国パキスタンとの国境地帯にある山岳などを捜索してきた。しかし、ビン・ラーディンの行方は判明しなかった。以後、死亡説と生存説が重ね重ね繰り返されていた。

 対テロ戦争を始めたアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権が2009年1月にオバマ政権に交代した後も、ビン・ラーディンの捜索は続き、アメリカ中央情報局 (CIA) がビン・ラーディンの連絡係を担う男性の動きを追う中で、ビン・ラーディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容されているハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが、捕捉の端緒となった。

 2010年8月頃、アボッターバードに居住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、さらに2011年2月にはビン・ラーディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った。アボッターバードはパキスタン陸軍の拠点であり、ビン・ラーディンの住居はパキスタンの陸軍士官学校とは至近距離にあったことから、BBCはISIがビン・ラーディンの身柄隠匿に何らかの関係があったのではないか、と報じた。この情報はオバマ大統領にも報告された。

 これはアメリカ政府内でもごく限られた人間のみが知りうる極秘情報として取り扱われた。その後も調査は続き、2011年3月中旬から4月28日にかけて、担当者とオバマ大統領の国家安全保障会議が5〜6回開催される。オバマは5回目の会議翌日の4月29日に作戦決行の許可を出し、ビン・ラーディンは暗号名「ジェロニモ」とされ、作戦名も「ジェロニモ E KIA作戦」と呼ばれることとなった。

 ビン・ラーディンが潜んでいた邸宅は3階建ての豪邸で、2005年頃に完成した。敷地の周辺は3メートルから5.5メートルもの高さの有刺鉄線に覆われた塀に囲まれており、豪邸に行くための通路には二重ゲートとなっているほか、入り口には見張りがつけられ、外部から内部の様子を容易に見えないようにする工夫がなされていた。周辺の家の約8倍もの広さを持ち、その価値は100万ドルを越えるとも言われる。

 2011年5月2日、アメリカ軍による作戦が開始される。目的はあくまでビン・ラーディンの殺害であり、生け捕りはほぼ想定されていなかった。一部報道によれば、これに参加したアメリカ海軍の特殊部隊Navy SEALsを中心とした約15人のメンバーは、SEALsから派生した対テロリスト特殊部隊「DEVGRU」のメンバーであったとされている。隊員たちは情報担当のCIA要員が同乗するブラックホークヘリコプター2機とチヌーク2機に分乗して、ビン・ラーディンとその家族がいると推定された建物の敷地内にロープをつたって降下、建物を急襲して2階・3階部分には午前1時ごろ突入。側近が応戦したが、約40分の銃撃戦ののち邸宅を制圧した。ビン・ラーディンは武器を持っておらず、応戦したともしなかったとも報じられ、頭部と胸部を撃ちぬかれ死亡。米軍は遺体を収容した。他にビン・ラーディンの子息と思われる20歳の男性、また別に兄弟2人の男性と1人の女性も死亡。女性は夫人の1人と報じられたが、後に「別人で夫人は負傷した」と訂正された。アメリカ軍側に人的損害は出なかった。その死はパキスタン政府当局によっても確認されている。

 作戦中にアメリカ軍のヘリコプター1機が墜落したため爆破処理されるというトラブルはあったが、すぐに代替のヘリコプターが駆けつけ、プラン変更を行うことで作戦は続行された。作戦はアメリカ本国でもホワイトハウスの危機管理室でオバマ大統領のほか、バイデン副大統領、ゲーツ国防長官、クリントン国務長官、マレン統合参謀本部議長らによって同時進行で見守られており、またCIA本部の会議室でもパネッタ長官らがリアルタイムで監視していた。いかなる方法で監視していたかについては公開されていないが、一部では映像が生中継で流れたとも報じられている。作戦成功の報をパネッタより受けたオバマは "We got him"(奴を捕えた)と叫んだという。

 ビン・ラーディン殺害を発表するオバマ大統領アメリカはこの作戦をパキスタン政府に事前に通告することなく行い、終了後に報告した。アメリカはパキスタンだけでなく、他の国とも情報は共有しなかったとされる。このためパキスタンのムシャラフ前大統領はアメリカによる一連の作戦は主権侵害であると非難している。

 ビン・ラーディンの死亡はアメリカのCNNによって一報が伝えられ、全世界のメディアも追随することとなった。その直後、オバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで深夜時間帯としては異例の記者会見を行い、ビン・ラーディンを殺害したことを正式に発表。全国テレビ中継を通じて "Justice has been done"(正義はなされた)と宣言した。このニュースが伝わると首都ワシントンのホワイトハウス周辺やニューヨークのワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が押しかけて歓喜の声をあげた。なお対テロ戦で協力関係にあったロシアにはこの公式発表の前に事前通告がなされていた。

 ビン・ラーディンの殺害自体については歓迎する声明が次々に発表されたがテロ攻撃の可能性がなくなったわけではなく、各国の警察・軍事組織は報復攻撃を警戒し、国際刑事警察機構も各国に向けて警戒するよう呼びかけた。

 テロに対する懸念が軽減したことから各国の株式市場は軒並み上昇した。東京株式市場は2011年3月11日の東日本大震災以来の終値1万円台回復を見せた。またアジア市場における原油先物相場が1%下落した。

 遺体はアメリカ軍によって、複数の親族とのDNA型鑑定の照合によりビン・ラーディン本人と確認された(マサチューセッツ州のボストンでビン・ラーディンの妹が脳腫瘍で数年前に死亡しており、FBIはその細胞と血液を保存していた)。ただしアメリカ軍以外の第三者による遺体確認はされていない。その後アラビア海に停泊していた空母カール・ヴィンソンに移され、同空母の甲板で50分かけて水葬の儀式が執り行なわれた。遺体は洗浄し清められ、白い布で包まれ、あらかじめ用意された祈りの言葉が唱えられ、通訳がそれをアラビア語に翻訳した。その後、重しをつけられた袋に入れられ、カール・ヴィンソンにあるエスカレーターから海に投下された。この水葬の模様を捉えた映像は公開されていない。

 アメリカ政府は、イスラム教においては遺体を死後24時間以内に埋葬しなければならないが、受け入れ先の土地が見つからなかったとして水葬の正当性を主張、一連の儀式はイスラム教の教義や慣習を厳格に守って行ったと発表している。しかしイスラムでは土葬が普通で、水葬されたことにはイスラム世界からの反発もあり、アル=アズハル大学の指導者タイブ師は「土葬によって死者に敬意を払うべきであり、イスラム教とは相容れない方法」と批判した。また本来はビン・ラーディンの出身国であるサウジアラビアに埋葬すべきであったとの声もある。アメリカ政府の意図として、イスラム過激派などによる遺体の回収や、埋葬された土地が「テロリストの聖地となるのを防ぐため」との指摘もある。ビン・ラーディンとされる頭を撃たれた遺体の映像が一時ネット上で出回ったが、これは後に別人の写真から合成されたものと判明し、米国政府は遺体の映像を一切公開しない方針を決定している。

 ビン・ラーディンが潜んでいた邸宅の近くに住む男性は聞きなれないヘリコプターの音と銃声に気づき、Twitterで一連の作戦の状況を「実況中継」していた。このツィートの7時間後にそれがビン・ラーディン殺害作戦である事が解かり、その後3万3000のフォロワーが付いたという。

 2011年5月2日死去(享年54)


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