原敬



原敬(はらたかし 1856年3月15日生)
 [外交官/政治家]


 岩手県出身。郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加。政界に進出し、1918年に米騒動によって寺内正毅内閣が総辞職した後、第19代内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。

 1921年11月4日、原は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたが、午後7時25分頃、丸の内南口コンコースにて、突進してきた中岡艮一に短刀を右胸に突き刺された。原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

 中岡艮一は国鉄大塚駅の転轍手(レールの分岐器を操作する仕事)で、以前から原敬首相に対して批判的な意識を持っていた。艮一の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、艮一は原暗殺を考えるようになった。

 艮一が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した原の政治に対する不満のほかに、玄洋社など当時の右翼勢力との直接的関係も疑われたが、確証はない。無期懲役の判決を受けたが3回の恩赦により1934年出獄。上司・橋本の影響も事件のきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった。

 襲撃の現場であった所にはプレートが付けられ、床に大理石の白い丸で印されている。

 1921年11月4日死去(享年65)


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