物語

閉じられた本 4


「じゃあ、行ってくるね。」
  今日は、八月十日。昨日、兄から電話があり、私は兄を近くの駅まで迎えに行った。
 小学生が田んぼの近くで、網と籠を持ってとんぼを追っていた。ここから駅へはそう遠くはない。一〇分も歩けば着くだろう。
「おーい!真子―!」
 後ろから足音とともに友達の声が聞こえた。
「どこ行ってるの?」
 彼女はプールバックを片手に持っていた。学校のプールに行くのだろう。夏休みの間、学校のプールは自由に使用出来た。
「駅だよ。智佳子はプール行くんでしょ。」
 智佳子は、幼馴染で現在、隣の家に住んでいる私と同い年の女の子だ。
「そうだよ。家にいたら、宿題やれって親がうるさくてね。駅って、どこか行くの?」
「迎えに行くんだよ。」
 智佳子は右手を口に当てて、からかう様に言った。
「まさか、遠距離恋愛中の彼氏に。ワオ!」
「違う違う、兄さんだよ。」
「なんだぁ。真子、兄弟いたっけ?」
 智子は首を傾げた。
「うん。最近知ったけどね。」
「さ、最近って、オイ。」
 智子は笑った。そして、私に手を振ると走って行った。
「イケメンだったら、紹介してよね!」
 振り返って、智佳子は言った。線路に沿って私は駅へと急いだ。
 すると、電車が私を追い越して行った。
「あぁっ!」
 間に合わなかった。私が出迎えると言ったのに。私は必死で電車を追いかけた。駅に着いた私は、急いで兄を捜した。でも、今思えば、兄の姿を私は知らないのだ。電話で聞く事も忘れていた。
『真子ちゃんと和君は、良く似ていたよ。』
 祖母の言葉を思い出し、とにかく若い男性を捜した。私はあたりを見回した。
「真子。」
 私はその声のする方向に目を向けた。ホームのベンチに座っている若い男だ。この声に聞き覚えがある。静かで、優しくて、壊れそうな声だ。私は彼に駆け寄った。
「お兄ちゃん・・・?」
 私は聞いた。
「今日は。」
 彼は、目を細めて笑う。祖母は私に似ている、と言ったが、兄は私と比べものにならなくらい美形な顔立ちをしていた。吸い込まれてしまいそうな、兄の黒色の瞳に、私は見とれていた。
「多分、その辺にあると思いますが、白い杖を取ってくれる?」
 私は下を見たが、何も見当たらなかった。兄の座っているベンチの下を覗き込むと、白い杖があった。私はそれを彼に差し出した。兄は両手を前に伸ばし、空中をさまよわせた。
目が不自由なのだろう。
私は、兄の右手首を握り、掌に杖を押し付けた。兄は杖を自分の方に引き寄せると、礼を言った。
「肩を貸してくれないか?」
 私は兄の左手を取り、自分の肩に置いた。兄の手は、とても冷たかった。
「これでいいの?」
 兄は、立ち上がった。思ったより、背が高い。そのとき、兄がよろめき、私の肩に兄の体重がかかる。兄は急いで手を離した。
「ご、ごめん。」
 私は、その兄の手を掴み、自分の肩に置いた。
「大丈夫。」
 兄の役に立ちたかった。夏だというのに、兄の手は冷たくて、気持がよかった。 私と兄とでは、身長が違いすぎて、兄の体重が、私の肩に少々かかったが、私は何ともなかった。兄は、それを気にしているらしく、さっきから私に、痛くないか?と、聞いてきた。
 何故、兄は目が不自由だということを、教えてくれなかったのだろうか。私がそれを知っていれば、私が一度、兄の所に迎えに行ったのに・・・。私はそのことを、兄に聞いた。兄は、すぐに口を開かなかった。
「ごめん。何度も言いたかったのだけど。」
 そう言って兄は首を振った。私は何故、そんなことを聞いたのか悔んだ。
「僕は、両親と一緒に事故に遭ったんだ。そのときに、頭を強く打って、何も見えなくなった。」
 私は何も言えなかった。兄のその眼には、何も映っていないのだ。
「丁度、君はその日に僕らと出かけず、祖母と家で待っていたから助かったんだよ。」
 私はその事故を、想像してみた。車が大きく揺れて、まだ幼い兄が、その振動により、ドアで頭を打つ。
「でも、それから皆、よそよそしくなったんだ。」
 兄は少し間を空けていった。
「何故だか、わからない。祖母に僕のことは聞かなかった?」
 私は首を横に振った。
「何も。それに、兄がいるということも。」
「・・・そうかぁ。」
 兄は悲しそうに言った。一体、兄はどんな人生を送ってきたのだろうか。
 兄は、苦笑いをして言った。
「なんか、暗い話題にしてしまったね。」
「いえ、いいの。過去を知れて良かったわ。」


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