物語

一途 3


 気づくと僕は自分のマンションの入口にびしょ濡れで立っていた。僕はコートからケータイを取り出した。液晶画面に『友梨』ち表示される。
 友梨……。
「なぁ、友梨、今から会えないか?」
「え、何? 今から? いいよ。でも少し遅れるから待っててね。」
 明るい、いつも通りの友梨の声がケータイ越しに聞こえた。でも、その声は僕以外の人にも使っていたじゃないか。僕と一緒にいて幸せだって言ってくれたのは、あの天使のような笑顔は、嘘だったのかよ。彼女を本当に幸せにできていなかったのかよ。どうしようもなく悔しかった。

 三十分くらいして、玄関の鍵の音と、ハイヒールを脱ぐ音が玄関から小さく聞こえた。
「ゴメンね、遅くなっちゃった。まさか全部の信号に引っかかるなんて思ってなかったから。」
 友梨は白いコートを片手に持って、僕の前に現れた。さっき僕が見た友梨と一緒の笑顔を僕に向けた。
「…友梨、僕ら別れたほうが良いよ。」
 僕は表情を変えずに、彼女に言った。友梨は首をかしげ、僕に聞く。
「何で? 私、幸せだよ。もしかして裕巳、好きな人が出来ちゃったの?」
 は? 好きな人が出来たわけないじゃないか! 友梨が幸せだ? 僕といて幸せじゃないからあの男と付き合っているんじゃないか。
「友梨はあの男といたほうが幸せなんじゃないか!」
 僕は友梨に向かって大声を出していた。友梨は少し困ったような顔をした後、また笑顔を見せた。
「あの男って、今日私と一緒にいた人だよね。あの人は私の学部の先輩よ。先輩が好きな人に告白してオッケーされたらしいの。でも、どんなふうに彼女に接して良いかわからないって私に聞いて、それで彼女と行きたいところを先輩と一緒に回って、今日だけ先輩が私にその彼女さん役を頼まれたの。」
 彼女役? そんな漫画みたいなこと、あるわけないじゃないか。 嘘だ。楽しそうに笑ってたじゃないか。
「もしかして裕巳、妬いてたの?」
 友梨が僕に笑顔を向けた。そして、左手の指輪を見せる。
「裕巳のことが一っ番大好きだからね。」
 一番好き? 本当に? なら何故、あんなに楽しそうにしていた? 
「嘘つけよ。」
「え?」
「嘘つくなって言ってんだよ! お前、あいつのこと好きなんだろ! だからあんなに楽しそうにしてたんだろっ!」
「違う、違うよっ。」
 友梨が怯えた声で僕に言った。
「何が違うんだよ!」
 友梨は俯いて、服の袖で顔を拭っていた。……そうじゃないか。
「本当だよ。私と付き合ったりしてないよ。」
「勝手にしろよ。」
 僕は友梨に向かって、そう冷たく言い放った。
「裕巳の馬鹿っ!」
 友梨は手に持っていた白いコートを僕に向かって投げつけた。でも、コートは僕に当たることなく床に落ちた。顔を上げた友梨は泣いていた。それから、僕は友梨が叫んだ言葉も、外で降り続ける雨の音も、何の音も聞けなかった。消音でテレビを見ているようだった。
 友梨が閉めたドアの音だけが何故かわかった。
 玄関を見ると綺麗に揃えられている赤いハイヒールだけが残っていた。彼女は裸足で出て行った。
 僕は友梨を追いたかった。けれど、何故か身体が重くて、心が苦しくて、何故か追うことが出来なかった。床に落ちた白いコートを椅子にかけ、ベッドに潜り込んだ。
 やっぱり、彼女が正しかったのかもしれない。分らない。けど。もう何もかも訳分らないじゃないか。
 僕は悩み続けた。何時間も何日も立った気がする。しかし、時計を見ると、まだ友梨が出て行って三十分も経っていなかったのだ。
 そのとき、ケータイの着信が鳴った。友梨が好きな『ライフ』の歌だ。僕はベッドから這い出て、ケータイを耳に押し付けた。
「…はい。」
 ………………………………え。
 彼女を追うべきだった。怒鳴られようが、ビンタされようが、彼女を追うべきだったんだ。
 すぐにでなくても、血眼になって彼女を探すべきだったんだ。
 友梨は……電車に撥ねられて、死んだ。
 

 あれから二年。まだ彼女の赤いハイヒールはこの玄関に残り続けている。誰も僕に罰を与えてはくれない。誰も僕を責めてくれない。僕の心は休むことなく傷み続ける。
 友梨の笑顔、最後にもう一度見たかった。
 踏み切りの音が僕の横から聞こえる。目の前に続く線路に僕は近寄っていく。そして、友梨を消したモノに僕も飲み込まれた。
 これで、全てが許される。
 そんな気がした。


                                    ―END―



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